2024年4月15日月曜日

仙臺新報 - 5

 仙臺新報 - 5

「仙臺新報」第20号 仙臺新報社 1908年2月号

下の記事は、河原崎権之助と自轉車の記事。

註、河原崎権之助(かわらさき ごんのすけ)は、 歌舞伎役者の名跡 。 屋号は山崎屋 。江戸河原崎座座元の名跡でもある。この記事の河原崎権之助は八代目と思われる。


「仙臺新報」第20号 
国会図書館所蔵資料

權之助と自轉車

俳優中での自轉車狂なる河原崎権之助が自轉車に乗る功徳の大なる事を稱賛し居るが其言ふ處に依れば五つの便益を具へ居れり

一、従来の柔弱怯懦なる俳優の精神を强健に且つ確固ならしむ

二、男地獄的の服装を一變して自然にその氣象をも改善せしむ

三、他の社會に見るを得ざる一種忌むべき門閥の陋習を破り上下平等の源を開くことを得べし

四、婦人に接近する場合を少くして悪しき遊びより遠ざからしむ

五、遠足を屢次する爲め種々の観察を廣くし藝道に裨益するに至るべし

斯く見來れば自轉車なるものは何れの社會にも通じて多大の便利と功徳とを有するものなる事を知るなり、とはまた遅し、之れ等は疾くに社會の凡てに認識せられたるものにして我が東北に於て始めて新らしき云ひ條なるべきか呵々。


2024年4月14日日曜日

仙臺新報 - 4

 仙臺新報 - 4

「仙臺新報」第20号 仙臺新報社 1908年2月号

下の記事は「自轉車撰擇の要訣」である。


「仙臺新報」第20号
国会図書館所蔵資料
以下同じ



●自轉車撰擇の要訣
英國倫敦体育會長セレリベル氏自轉車の選擇法を曰く「自転車は中古を買うべからず」、「自轉車の購入は最も有名なる會社を選べ」、「自轉車の撰擇は外観よりも實質を重んぜよ」、「自轉車の購入は必ず信用ある商人の手に於てせよ」の四條を挙げ之が注意事項として「クランクの堅牢」「ギャの精良」「チェインの善惡」「フレームの鋼質」「タイヤの良否」「把手の釣合等」を列舉せられたり。


2024年4月13日土曜日

輪業世界 - 6

 輪業世界 - 6

「輪業世界」第40号 大正10年6月15日発行

下は、「輪業世界」第40号の広告など、

トート號、レクセン號、ダビス號
 自轉車製造所
㈱競輪社
本社 東京市小石川區水道端一ノ二八

ニーホム號、セイロン號、ニュースワン號
松田商店
小林利三郎商店
疋田製作所
高野商店

トライアンフ自転車
トライアンフ自動自転車

二人乗り新型フライヤー 1921年式
スクーター
オートサンリン
中央貿易株式會社

みつびしアセチレン自転車ランプ
磯村合名会社

磯村合名は磯村産業に改組
ガスマントルの磯村合名會社として明治四十二年に産れ出た同社は其後工業薬品、アセチリン燈から進んで窒素、水素の製造装置等の製作に移り、近頃は瓦斯ストーヴ、瓦斯湯沸器で氣を吐いてゐられるが今回業務の發展と共に營業の擴張を行ふことになり、今般株式組織に改組したその方法は磯村產業株式會社資本金六十萬圓(拂込四分の一つ)を創立して磯村合名會社資本百八十萬圓(拂込百二十萬圓)を合併し、名稱は磯村產業株式會社となし營業をなすものであり、これが役員として社長は磯村乙巳(舊磯村合名會社代表社員)專務小田村有芳、取締役眞鍋十藏、磯村利水、磯村秀策、眞鍋左武助諸氏である、猶又芝區今入町三番地に堂々たる四階建のビルディングを建設し、十二月十四日完成と共に移轉し、同系の保土ヶ谷曹達、金星商会も二十日に移轉し磯村系の會社がここに全部集まる模様である。
(瓦斯の世界 、 瓦斯の世界社 1937年1月発行より)

最新理想的高級車
乃木號自轉車
製造發賣元
粂野領太郎商店
東京市深川區東森下町四〇

日本自転車宝鑑 輪界新報社
大正14年発行
国会図書館所蔵資料

2024年4月12日金曜日

輪業世界 - 5

 輪業世界 - 5

「輪業世界」第40号 大正10年6月15日発行

下は、「輪業世界」第40号の広告など、

東京輪士会選手10哩競走
羽田グランド
吉野仁一君(ノートン)
横川英喜君(トライアンフ自動自転車)
柳田弥吉君(ロッキー)
木村寅一君(サフヤ)など

スパークブルック號自轉車
スワロー號自轉車
スペシアル號自轉車
帝愛號自轉車
東京市日本橋區蠣殼町三丁目一番地
飯塚德藏商店

エムエスエー號
デムラー號
自轉車發賣元
東京市日本橋區新材木町八
小宮山長造商店

註、小宮山長造は当時の花形選手であった。東京では他に鶴田勝三、毛利 正、竹内仙之助、渡辺亀吉、佐藤彦吉、小坂又造、佐藤真平、荒磯次郎、大阪では石井大三郎、鈴鹿光一などがいた。
彼は石川商会のお抱え選手でもあり、毛利 正とともにピアス号に乗っていて、この自転車の販売に大きく貢献している。


2024年4月11日木曜日

仙臺新報 - 3

 仙臺新報 - 3

「仙臺新報」第19号 仙臺新報社 1908年(明治41年)1月号

下は「年賀と自転車」の記事。


「仙臺新報」第19号
国会図書館所蔵資料
以下同じ


●年賀と自轉車

那珂博士と田中館博士とは本年の元旦も相變らず自轉車年賀をやるであらうが、両博士は共に岩手縣出身の人であつて何れも大の愛輪家である。殊に田中館博士の如きは極めて邊幅を装らない洒脱な性質で、雨などが降ると油紙を赤毛布の様に被って自轉車へ乗つて廻ると云う始末、元旦の参内の時に那珂博士が乗輪して居るのを田中舘博士が見て、イヤ規則に參内を禁じてないから我も乗って行こうと云ふので乗り始めた。で、両博士は例年自転車で参内するので宮内省の小使は大に閉口する。他の人々は二人曳の人力車か又は馬車てあるから各自の車夫馬丁御者等が乗用車の始末をするが自轉車はさうはいかない。年賀の礼が済んで帰るまでは是非小使が姿勢を正して自轉車の番をさせらる、と云ふので小使部屋では大コボシを爲て居るさうである。

註、●田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、1856年10月16日~1952年5月21日)

地球物理学者、東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員、文化勲章受章。

●那珂 通世(なか みちよ、1851年2月6日~1908年3月2日)
南部藩出身の明治時代の歴史学者、「東洋史」創唱者、文学博士。

2024年4月10日水曜日

トーマス・スティ-ブンスの記事

 トーマス・スティ-ブンスの記事

「娯楽倶楽部」 (社会叢書 第3巻) 明治28年8月発行

にトーマス・スティ-ブンスの世界旅行についての記事あり。


82.83頁
「娯楽倶楽部」 (社会叢書 第3巻) 
国会図書館所蔵資料


自轉車旅行、
米國には現に六萬人の自轉車乘者あり米人の中には、千八百八十七年(1887年)一年中に八千哩を走れる者ありまた七千哩を走れる者あり更に驚く可きは米人トーマス、ステヴンスは千八百八十四年(1884年)四月自轉車乗じて桑港(サンフランシスコ)を出發し米大陸を横断して波士敦(ボストン)に到り海を越へて英國に着し日耳曼(ドイツ)、奥地利(オーストリア)、小亞細亞、アルメニア、波斯(ペルシャ)、亞富汗(アフガニスタン)、印度、支那を経てまた米國に帰り自轉車にて世界一週をなせる者の嚆矢となれるなり、其後自轉車世界一週者の数次第に増加し来れり、兎に角自轉車の發達の速やかなる流布の廣き實に驚く可き一現象と云はざる可からず。 

2024年4月9日火曜日

自動自轉車で鎌倉大仏

自動自轉車で鎌倉大仏

「自動車」 第1巻 第3号 日本自動車倶楽部横浜支部 1913年(大正2年)2月15日発行

自動自轉車俱樂部のメンバーが、鎌倉大仏の前で記念撮影。

註、一番下にあるフランク・レンツの写真(1892年撮影)を思い出す。


「自動車」 第1巻 第3号
国会図書館所蔵資料

自動自転車の部分を拡大

自動自転車の銘柄は不鮮明で判然としないが、当時人気のあったトライアンフ、エクセルシャー、ヘンダーソン、ロイヤル エンフィールドあたりであろうか。

自動自轉車愛輪家の大佛見物

自動自轉車俱樂部中に於ても特に元氣旺盛なる會員は、 過日鎌倉に遠乗し彼の有名なる古跡大佛前に於て撮影したるものなり、今左より其の姓名を列記すれば、「エッチ・エフ・バウアー」氏、「ジー・イー・エングストローム」氏、「エー・ダーリン」氏、「ジー・チャールズワース」氏、及び「ティー・ギルバート」氏なり、

MOTOR-CYCLISTS PAYING A VISIT TO DAIBUTSU.

The most enterprising Members of the contemplated Motor-Cycle Club recently went to Kamakura on their machines and at the feet of the thousand year old, venerable statue of Buddha the party had their picture taken. They are from left to right: H. F. Bauer, G. E. Engstrom, A. Dahlin, G. Charlesworth and T. Gilbert.

大仏を訪れたバイク乗り達、

最近、モーターサイクルクラブの最も進取的なメンバーは、バイクで鎌倉に行き、千年前の由緒ある大仏の前で写真を撮った。

左から: H. F. バウアー、G. E. エングストローム、A. ダーリン、G. チャールズワース、T. ギルバート。


鎌倉の大仏
 中央にフランク・レンツとビクター号が見える
1892 年 11 月 19日
「The Lost Cyclist」 by David Herlihy 2011 年発行 220 頁